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南米ボリビアから開成町へ紡がれていく フォトグラファーの私が「わの会」との繋がりを持ったきっかけは、
2007年7月の車人形公演と、2009年、2011年に開催されたロス.カルカスの日本公演の撮影を
担当させて頂いたことでした。
そして「わの会」の皆様のあたたかいご支援を得るようになり、
2011年10月「わの会15周年イベント」の一環で「カルカス写真展」を
「YOUYOU」で開催させていただくことになったのです。
しかしこうした繋がりは、急に生まれた訳ではありません。「わの会」との出会いは
遡ること12年前、1999年8月、日本の裏側に位置する南米ボリビアはコチャバンバという町に
偶然立ち寄ったことから始まったのです。
そのころ私は、山岳写真を撮影するために世界を旅していました。
アジアではネパールのエベレスト街道や、パキスタンのナンガパルパット、
バトゥーラ氷河に足を運び、南米ではあこがれの地、大陸最南のパタゴニア地方で
トレッキング撮影を遂行。
そして、山好きが高じてついにペルーブランカ山群ピスコ峰(5752m)にも登頂してしまいました。
なかでも南米の旅に関しては、「地球の大きさを感じたい!」という思いから、
中米はメキシコからグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、
コスタリカ、パナマまでバスで移動。
海賊がでるから危険だと言われていたが、あえてフェリーを使ってコロンビアに入り、
エクアドルの赤道をまたぎ、ペルー、ボリビア、パラグアイ、チリ、アルゼンチンを旅し、
そして「南米大陸最南端の町ウシュアイアでマゼラン海峡を見て、
南極から1,000kmあまりのこの土地に吹き付ける風を感じてみたい!」と
4000m級のアンデス山脈や平原を越えました。
すべての旅の行程を路線バスで移動したのですが、一回の平均乗車時間は12時間。
最長で2日間バスに拘束されていたこともあり、トータルでの走行距離は
いったい何kmだったのかでしょうか・・・。
そんなハードな旅ばかりしていた私が、休息のためにふと訪れた高原の町が
コチャバンバ(標高2560m)でした。コチャバンバはボリビアで3番目の規模を誇る都市。
赤道に近いため年間を通して平均気温が20度前後となっており、日本でいう春の気候が
続く理想郷なのです。
山ばかりに夢中になっていた私は、この地で美しい音楽を奏でる
カルカスというフォルクローレグループに出会うことになりました。
そしてボリビア国内でも高いレベルにある彼らの音楽に、心の奥の深いところから
魅せられてしまいました。KJARKASと書いてカルカスと呼びますが、この意味は
ケチャア語+アイマラ語が混ざった言葉で「地震、根っこ」などの力強さという意味。
この言葉はまさにエネルギッシュなカルカスの音楽そのものです。
彼らの歌はスペイン語とボリビアの母国語のケチュア語なのですが、
言葉の意味がわからなくても、その発音の響きや、ケーナ、サンポーニャ、
チャランゴ、ボンボが奏でる素朴でどこか懐かしさを感じる旋律はとても心地良く、
故郷へのノスタルジーをかきたて、鑑賞者に優しく穏やかに語りかけてきます。
その上、カルカスのメロディーは、ときに力強く、またときに心をかき乱すほど
激しく情熱的、聴くものの魂を感動で震わせてくれるのです。
山ばかりに夢中になっていた粗野な山ガールが、洗練されたカルカスの音楽に
すっかり引き込まれてしまいました。

1999年、カルカスの音楽ビデオを3人で熱心に見ている様子(誠さん入団前)
カルカスを知ることになった1999年8月、私はもうひとつの大切な出会いを
経験することになります。それが日本からはるか彼方のこの地で、
フォルクローレに夢をかけ、黒い瞳をキラキラ輝かせた日本の美少年、
「誠さん」との巡り会いでした。当時、彼はおそらくまだ二十歳にもなって
いなかったのではないでしょうか。
意気投合した私は、彼と彼を後ほどカルカスに導くことになった中澤俊子さんの3人で
「カルカスクラブ」を結成。
誠さんはカルボー(カルカス坊ちゃん)、中澤さんはカルマー(カルカスママ)、
私はカルネー(カルカスねーちゃん)と呼び合うほど、毎晩カルカスの音楽を聴きながら
親交を深めていきました。
誠さんはイケメンにしてはめずらしく(?)とても気さくな人でした。
そのため標高が高いとお腹にガスがたまって仕方がない私が、
プッップップとおならを出しても“へ”っちゃら。そんな私にすかさずおかえしっぺをするほど、
彼はユーモラスな面も持ち合わせていました(笑)
1999年12月になると、誠さんのお父様である宍戸忠夫さんがコチャバンバにいらっしゃいました。
お父様は知性と溢れんばかりの情熱を秘めた方でしたが、誠さんが茶目っ気のある人物のため、
「カル父参上!」とカルカスクラブの面々は、大いに盛り上がりました。
音楽の「わ」は、人の心にスルリと入り込むので、仲間を作るのにたいして時間はかかりません。
私と中澤さんは誠さんのお父様とも地酒「チチャ」を交わしながらすぐに打ち解けました。
冒頭でお話しした車人形の撮影に携わったのは、現在でもコチャバンバ在住の中澤さんが
邦楽の語り物をしており、その撮影を頼まれたことがきっかけ。日本の伝統芸術を演じる
浄瑠璃車人形の公演に理解を示してくださった宍戸さんが、「わの会」に呼びかけ、
皆様が賛同してくださったことで、2007年7月8日、わの会主催、
開成町及び開成町教育委員会共催『さんしょう太夫』が開催され、盛況な公演となりました。
このように、ボリビアでのこの偶然の出会いがやがて「わの会」の皆様との出会い、
そして「カルカス写真展」へと繋がっていくわけですが、
このとき私はそうなろうとは夢にも思っていませんでした。
2000年の12月に私は帰国したのですが、その後誠さんはコチャバンバで
運命に導かれることになります。
誠さんとカルカスの出会いは、1985年の日本公演の時で彼は8歳。
時は流れて、2002年1月25日、24歳に成長した誠さんは、その実力を発揮して
グループカルカスに入団するという快挙を成し遂げたのです。
カルカスの音楽は民族的な思想が根本にあるので、
日本人の誠さんにいくら感性や技術があっても入団するのはそう簡単ではありません。
私の勝手な考えですが、
柔和な性格と小さい頃からカルカスは誠さんのヒーローだったことが、
リーダーのゴンザロ氏の魂を揺さぶったのだと思います。
この日から誠さんは私と中澤さんのヒーローになりました。
そんな誠さんの活躍を励みに、
私も日本で写真の仕事にいっそう熱を持って打ち込むようになったのです。
帰国してから約8年の歳月が過ぎた2009年に、カルカス来日が18年ぶりに決定しました。
私が大喜びでコンサートを聴きにいく日を楽しみに待っていると、
運命のなせる技か、神業か!? カルカス撮影の仕事を依頼されたのです。
その時の心情はどうもうまく言葉にできませんが、山の頂上で「ひゃっほー!」と叫びながら
南米の紺碧の空に向かってジャンプしたときの気持ちに似ていると表現すれば伝わるでしょうか!?
ステージ写真の撮影はその距離感がとても難しいのですが、
12年ぶりのカルカスとの再会の喜びを写真に収めることができました。
コチャバンバでは、誠さんと中澤さんとの3人で、毎晩のようにカルカスのビデオや、
音楽を聴いていましたが、私たちのヒーローとなった誠さんは、立派な奏者に成長。
彼のチャランゴを演奏する堂々とした様子は、あこがれのカルカスに入団できた喜びと
自信に満ち溢れていました。たいそう楽しそうに演奏する誠さんの姿は、
写真の撮り甲斐も抜群でした。
どれほど写真映えするかというと、私の話や写真を見て下さった写真家の先生が、
「南米のキムタクね。いい男だわ。あなたは日本人として外国で頑張る彼の姿を撮影して、
写真展をなさいね」とおっしゃったほどです。

2009年、誠さんがカルカス入団しての松田町コンサート
ちなみに、
その際私は「はい。私は誠さんを撮影することで、ボリビア親善大使になってみたいです」と
答えました。私には大きな夢が広がっています。
そうして撮影したカルカスの写真を「YOUYOU」で展示させて頂けたおかげで、
10数年のわたしとカルカスとの「繋がり」をまとめられました。
写真展では、宍戸さんのDVD映像やグループパチャママさんの演奏とのコラボレーションによって、
写真では伝えにくい音の世界を知ってもらえた結果、カルカスを知らない方から
「来日の際には絶対声をかけてね!」などという声が聞けたこともうれしい成果です。
展示にはカルカスのファンの方も多く写真を見に来てくださり、中には遠くは神戸、
愛知からもいらしてくださいました。その人たちからカルカスの音楽への熱い想いを
感じられたことも大きな収穫です。
多才な才能をもつ宍戸忠夫さんは演奏家でもあるのですが、
「演奏者自身が音楽を楽しんでこそ、気持ちが伝わる。
決してうまく弾くことやミスなく弾くことが重要なのではなく、
楽しんで楽器を奏でるといういたって単純なことが、一番大事でした」と語ってくれました。
表現者として、彼は純粋な思いの大切さを私に教えてくれたのです。
今思えば、ボリビアではカルカスも含めて、みなが楽しんで演奏し、
聞く側もまた楽しみ踊る。その相乗効果で演奏会場が更に盛り上がり、
陽気なラテンの雰囲気ができ上がっているのでしょう。
こうして考えてみると、ボリビアのカルカスから繋がった宍戸家の皆様や、
車人形の人々、そして笑顔がチャーミングな小泉会長さんをはじめとする
「わの会」のにこやかな皆様たちが、まるで糸のように絡み合い、
心地良い音楽を作っているかのようにも思えます。
もちろん誠さんのカルカスへの道は、そんなご両親と共に歩んできたからこそでしょう。

2012年、「カルカス写真展」と「グループパチャママ」のコラボレーションYOUYOU2階にて
生きていれば順風満帆の人生などそうざらにはありません。
しかし辛い事も背負いながら、
こうして人と人が紡いでいく関係を写真に収めることができるのはなかなか面白いものです。
南米の太陽の光が大地を照らすように、私が人との温かい繋がりをカメラで浮かび上がらせ、
その一瞬を記録していければどんなに素敵なことか。カルカスの音楽を軸に紡がれた糸が、
これからどんな形に編まれていくのかとても楽しみです。
私もその一部になれることを願いながら日々シャッターを押していきたいと思います。
おわりこちらの文章著作権は
「わの会」にあります。無断複写、転写はご遠慮ください。
本日の記事は許可を得ての掲載です。
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2012/04/26
KJARKAS
762TB 0
762Com 1
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